2012年12月24日月曜日

転機となった1997年 3

 橋本「財政構造改革」とは何だったのか?
 その全体像はともかくとして、それが消費税の3%から5%への増税、公的医療保険の自己負担率の増額、その他の国民負担率の増額を中心とするものであったことは多くの人の記憶に残っているでしょう。これによって国民負担は<単純計算に従うと>9兆円ほど増えることになりました。これは当時の名目GDPの2%ほどにあたります。
 これほどの巨額の負担を増やした場合、それが経済に与える影響はどうなるでしょうか? 
 橋本首相と大蔵省の計算では、ceteris paribus(その他の条件が不変ならば)、一般会計の赤字は9兆円減ると期待されていました。実に単純な計算です。
 しかし、実際にはそうはなりませんでした。一般会計の赤字(単年度)が減るどころか、むしろ大幅に増えたのです。どうしてでしょうか? 経済というのは複雑系の世界です。"ceteris paribus"の前提が成立するほど単純なものではないからです。もう少し詳しく説明しましょう。
 9兆円に相当する国民の公的負担が増えるということは、その分だけ潜在的な可処分所得が減るということを意味しています。それは可処分所得からの支出(大部分は消費支出)が減ることを予期させます。また実際そうなりました。一方、政府の潜在的な収入は増えることになるでしょう。それがそもそもの財政構造改革の目的の一つだったわけです。ただし、そのためには条件があります。つまり、政府が歳入の潜在的な増加分だけ支出を増やせば、国民の側の支出の期待減少分を補って、日本全体の支出の大幅な減少は防げるでしょう。そうすれば景気の悪化が生じることもありません。しかし、橋本首相は、総選挙前には政府支出を増やすと公約していたにもかかわらず、実際にはこの公約を守りませんでした。つまり、結論すれば、橋本「財政構造改革」は2%ほど景気を悪化させる政策を実施したのです。
 実際の様子を見ると、消費税率の引き上げられる直前の1997年3月までに「駆け込み消費」が生じ、商業販売額は拡大しましたが、4月からは消費支出が急速に低下してゆきました。前年(1996年)に3%近くにまで達していたGDP成長率は急速に低下し、日本はふたたび景気後退の奈落に落ち込みます。
 財政収支はどうなったでしょうか? 次の一般会計に関する統計をご覧ください。

出典)財務省、オンライン・データより作成。


 租税収入は増加するどころか、1998年、1999年と大幅に低下し、逆に公債金収入(国の借金)は急増しました。公債金の増加には、景気後退に直面して、政府(橋本内閣に代わって登場した小渕内閣)が公共支出を増加させることを余儀なくされたという事情も手伝っています。
 「財政構造改革」は、20世紀末の日本のきわめて大きな失政です。それは景気後退を人為的に起こし、1992年からの「複合不況」で拡大した財政赤字を倍増させました。それはまた金融危機をふたたび拡大する役割を演じました。前回、1997年3月から1999年3月にかけて不良債権が拡大したという事実を示しましたが、この事実はもちろん財政構造改革と無関係ではありません。
 ところで、1997年はアジア通貨危機の年でもありました。そこで、橋本財政構造改革の失政を取り繕おうとしようとする人の中には、1997年〜1998年の景気後退をアジア通貨危機のせいにしようとする者もいます。しかし、因果関係は逆であり、日本の景気後退を前にして、日本の輸入縮小→東アジア諸国の輸入縮小→通貨危機を恐れた日本企業が投資資金を引き上げたことがアジア通貨危機の直接の原因だったことを明確に示す説得的な研究があります。
 

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