2013年12月16日月曜日

市場は何故必要か? マーシャリアンクロスは成立するか?

 これまで主に「市場」の欠陥といえる事柄について述べてきました。
 ただし、「市場」は欠陥だらけだから、廃止しようといって簡単に廃止することはできません。今日は、まず「市場」が何故必要なのか、何故廃止できないのかを考えてみましょう。考えるヒントはこれまでの優れた経済学者の書いたもののなかに転がっています。
そのあと、マーシャリアンクロス(財市場)について一言。

市場は何故必要か?
1 経済学者だけでなく、多くの哲学者や社会科学者は、人間が利己的な生物であると考えてきました。「利己心」だけだと主張するわけではありませんが、「利己心」を持たない人はいないでしょう。アダム・スミスなどは、人が利己心を持つからこそ、他人もそうであろうと考え、共感(同情)することができると主張しています。とりあえず、このことを前提として立論をすすめます。

2 次に人が家族や世帯などの小さな共同体の中で暮らしており、あまり他の社会と接触しないような状態ではなく、広範な人々と財やサービスを交換する社会を考えます。このような社会は「市場」なしでも存在しうるでしょうか? 出来るかも知れませんが、その場合、様々な難しい条件をクリヤーすることが必要になるように思われます。例えば異なった財と財との交換比率をどのように決めたらよいでしょうか? また誰が決めるのでしょうか? 民主的にでしょうか? それとも王様や皇帝のような政治的首長でしょうか?

3 市場における交換の場合には、それは比較的簡単に行くでしょう。
 いまある人(A)が自分の持っている(生産した)財(X)を売りに出すとします。彼/彼女は、それを出来るだけ高く売ることを欲するでしょう。そして、それを売った代金で今度は別の財(Y)を購入することになりますが、今度はそれを出来るだけ安価に買うことを欲するでしょう。出来るだけ高く買い、安く売る。これは「利己心」の発現によるものです。しかし、他のすべての人(B、C、D、・・・)も同じように行動します。
 そこで、いまAとBが同じ市場で、同じ財Xを売りに出すとき、AがBより高い価格を設定すれば、他の人々はBから財Xを購入するでしょう。
 このことは、市場は利己心の発現の場であると同時に、利己心が競争によって抑制される場でもあることを意味しています。

4 要するに、人はより安価に買い、より高く売ることを欲するのが、市場という機構=メカニズムです。その結果、財X、Y、Z、・・・の価格は適当な水準に設定されることになり、また交換比率も市場における売買の中で自動的に(つまり特定の誰かが設定するのではなく)決定されることになります。


マーシャリアンクロスは成立するか?
5 このように書くと、だから財市場ではマーシャリアンクロスが成立するんだね、という人が出てくるかもしれません。マーシャリアンクロスというのは、右上がりの供給曲線SSと右下がりの需要曲線DDのことを意味し、その交点(均衡点)が価格と量とがちょうど釣り合う点となる考え方のもととなる「×」のような図のことです。
 しかし、待ってください。人がより安価に買いたいと思い、より高く売りたいと思うという性向を持っていたことを認めるとしても、そこからマーシャリアンクロスが導かれるでしょうか? 理論的には決して導かれません。
 3と4に戻って考えてみましょう。そこでの人々の行動は、結局、次のようになります。いま財Xを売りたい人が複数いて、それぞれが異なる値段を設定しているとします。この場合、購入者はより安価な販売者から購入するでしょう。より高価な販売者は、売れ行きが悪ければ、価格を引下げなければなりません。
 一方、財Xを購入したい人が複数いるとします。そのうち一人は他の人より高い買値を提案するとします。この場合、高い買値をつけた人に財Xが販売されることになり、より低い買値をつけた人は財Xを購入できないかもしれません。その場合、買値を引き上げなければならなくなります。
 さて、これらの例では、価格の相違がどのような販売者と購買者の価格設定行動をもたらすかを示しただけであり、需要量と供給量を考えませんでした。SSとDDを描くためには、それらの量を考えなければなりません。

6 しかし、ここで私たちはきわめて当惑的な事態に遭遇します。
 いま需要量と供給量と言いましたが、そもそもどこにおける、どの時点の需要と供給なのでしょうか?
 例えば1700年12月××日における××国××市における「定期市」のように特定の場所と時間における「市場」(閉鎖的空間)における需要と供給でしょうか? 確かにそこには一定量の商品と交換用の貨幣が準備されていると考えてよいでしょう。そのような場における交換の様子を思考実験して見ることもできます。
 しかし、実は、そのような市場は単独では成立しません。そもそも市場に持ち込まれた商品は、すでに成立している価格相場を前提にして、工場で特定量だけ生産されたものでしょう。また買い手も一定の価格水準が存在することを前提にして、購入量を予定し、持ち込む貨幣量を決めていることでしょう。決してその場で価格をはじめて知り、購買量や供給量を決めるのではありません。一つの市場の外部には、他の多数の市場と生産の世界が広がっています。
 ところが、マーシャリアンクロスの形状を説明する人々は、判で押したように、外部世界と何の関係もない空想的で閉鎖的な「市場」(いちば)にわれわれを連れ込み、むりやり右上がりの供給曲線と右下がりの需要曲線を想像させます。たしかに、そのような仮想空間では、そのように想像するしかないかもしれません。

7 アダム・スミスは、われわれを決してそのような空想的・閉鎖的な「市場」に連れてゆこうとはしませんでした。確かに彼は、われわれを、主人(経営者)も職人(労働者)もおらず、資本装備を持つ工場もなく、交換のための貨幣さえ存在しないような未開の時代にわれわれを連れてゆきます。そして、10時間の労働の成果(X財)と別の10時間の労働の成果(Y財)を交換するのが人間の本性にかなっていると主張します。しかし、まだこの説明の方が市場とそれを取り巻く生産の世界を視野に入れているだけ、現実主義的ではないでしょうか。少なくとも生産や他の市場から切り離された空想的・閉鎖的市場空間に閉じ込めるよりは、です。

8 結論しましょう。
 市場は「欠陥」を持つとはいえ、人々の利害を調整する場であるため、廃止するのは難しい。
 われわれのミクロの行動は、集計されて社会全体の帰結をもたらします。しかし、社会全体の状態がわれわれのミクロの行動を規定をしているという連関があります。この双方向の影響を研究するのが科学的態度というものです。しかも、その際、生産、分配、消費の相互関係を視野に入れなければなりません。

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