2013年12月18日水曜日

負担は公的負担だけではない

 しばしばマスコミ人は、公的負担(租税負担、社会保障費負担、政府の負債など)を論じるとき、それが負担のすべてであるかのように論じる傾向があるように感じるのは、私だけでしょうか。また現役世代の負担を論じるとき、公的負担が軽いほど現役世代の負担が軽くなると、短絡的に考えている節があるようにも感じます。

 まず前者から見ておきましょう。
 私たちは公的負担(租税や社会保障費負担)を担っていますが、それが負担のすべてではありません。私的負担も負担の大きな項目です。
   負担=公的負担+私的負担
 この簡単な式から分かるように、公的負担が少ないほど負担が少なくなるとは限りません。というのは、むしろ私的負担が増えることが予想されるからです。
 例えばヨーロッパ諸国では、大学までの学費が無償化されている国がたくさんありますが、それが無償化されていない日本や英国、米国では、良心が子供の教育費をその分だけ余計に支出(私的負担)しなければなりません。このことは、医療費や年金、失業給付金、その他の様々なことに当てはまるのですが、くどくどとは説明しません。(個人的に経験したことですが)例えば基礎年金しか出ていない両親の扶養義務を負う子供たちは結局私的負担を増やさなければなりません。あるいは、<現在の高齢者の中には、自分が公的負担をしなかったのに年金を受け取っている人がいる>といって批判している人もいるようですが、多くの人々の中には現役時代に両親を自分の財布や介護等で扶養していた人たちもいるはずです。

 このように言うと、<私的負担であろうと公的負担であろうと、結局、国民が支出した額を国民が受け取っているので同じだ>という人もいます。たしかにマクロ的にはその通りです。しかし、公的負担には、累進課税制度などを通じた所得再分配の機能があります。また人々は将来のリスクに対して個人個人では備えないという性向があるので、政府が制度を構築してそれに備えるという意味もあります。したがって、ミクロ的には公的負担には大きな意味があります。
 要するに、この問題を考えるとき<私的負担>と<公的負担>の関係をどのように考えるのかという視点がきわめて重要となるはずですが、まるで公的負担が少なければ、負担全体が少なくなるといわんばかりの主張が行われています。しかし、そのような見解が問題だということは言うまでもありません。それともマスコミで働いている人々の多くは高給を食んでいるので、高い公的負担が自分たちにとって不利だからそれに反対したいのでしょうか? 決してそうではないことを望みます。

 さて、もう一つの点ですが、少ない公的負担が若者の雇用を破壊しているという側面もあります。現在、問題となっているのは、例えば介護保健事業所における介護士さんたちの厳しい労働条件です。きつい労働内容、それに決して満足とは言えない給与所得という現実は、少ない公的負担が若者に決してやさしくはないということの実例です。多くの人々が資格を有しながらも2つの理由のために離職しているという現実があります。

 ジョン・K・ガルブレイスは、「労働」をめぐる「欺瞞」について、「仕事を最も楽しんでいる連中こそがほとんど例外なしに最高の報酬を得ているのである。・・・他方、反復的で、退屈で、骨の折れる仕事に就いている人の賃金はいたって安いのが当たり前とされている」と述べましたが、これが営利企業が支配する現代の企業家経済の特徴といってよいでしょう。
 民主的に組織された政府の介入なしに、こうした現実を変えることはできません。

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