2013年12月1日日曜日

ローマ法王の市場原理主義批判( 福音の喜び、Evangelii Gaudium)

 ローマ法王が現在のネオリベラリズム(新自由主義、市場原理主義にもとづく現在の強欲資本主義・拝金主義・略奪資本主義・金融資本主義・格差のひどい拡大)を厳しく批判する著書を出しました。商業メディアなどは無視するか、批判的な意見を述べているようですが、法王フランシスコの言葉には説得力があります。英語版が出ていますので、その一部(52〜60)を日本語に訳しました。(こなれた日本語になっていませんが、後日ブラッシュ・アップする予定です。)

52 現在、きわめて多くの分野で進んでいる進歩からわかるように、人類は歴史上の転換点を経験している。私たちは、このような医療、教育、通信といった分野で、人々の福祉を改善するために取られているステップを讃えることができる。同時に、私たち同時代人の多数がどうにか暮らしているだけであり、悲惨な結末を伴っていることを覚えておかねばならない。多くの疾患が広がっている。多くの人々の心は、いわゆる豊かな国でも、恐怖と絶望にとらわれている。生きる喜びが失われ、他人に対する尊敬の欠如と暴力が増加しており、不平等がますます拡大している。生きること、しばしば貴い小さな尊厳をもって生きることが闘いとなっている。この画期的な変化は、科学と技術において生じている巨大な、質的、量的で、迅速かつ累積的な進歩によって、また自然と生活のさまざまな分野における即座の応用によって生じてきた。私たちは、知識と情報の時代におり、それは新しく、しばしば匿名的な種類の力に導かれる。



排除のない経済へ

53 「汝殺すなかれ」という戒めが、人の生命の価値を保護するために明確な制限を設けるのと同じように、今日、私たちも、排除と不平等の経済に対して「汝なかれ」と言わなければならない。そのような経済は殺人に等しい。高齢のホームレスが外で亡くなることがニュースではなく、株式市場が2ポイント下がったことがニュースになることがどうしてありえるのだろうか? これは排除の一例である。人々が飢えているのに食品が捨てられているとき、傍観してよいのだろうか? これは不平等の一例である。今日、すべての者が競争と適者生存の法則の下に置かれ、力の強い者が力のない者によって養われている。その結果、多くの人々が排除され、周辺化されている。仕事に就けず、可能性を失い、脱け出す手段を持たずに、である。人間は、使われる消費財と考えられ、次に捨てられる。私たちは、現在広がっている「捨てる」文化を造り上げてしまった。これはもはや単なる搾取と抑圧ではなく、何か新しい事態である。排除とは、結局のところ、(排除された人々が)私たちの住んでいる社会の一部であることを意味している。しかし、排除された人々はもはや社会の裏側、付属物、または権利を奪われている人々ではない。彼らはもはや社会の一部でさえない。搾取された人々ではなく、部外者(アウトカースト)、「残り物」とされている。

54 。これに関連して、一部の人々は、経済成長は自由市場によって促進され、必然的に世界により偉大な正義と包括性をもたらすことに成功すると仮定するトリクルダウン理論を擁護し続けている。この見解は、事実によって確認されたことがなく、経済力を振り回す者人々の善良さ、また現在広まっている経済システムの神聖な仕組みに対する粗野で素朴な信頼を表現している。一方、排除された人々はまだ待望している。他人を排除するライフスタイルを維持するために、あるいはその利己的な理想に対する熱意を維持するために、無差別のグローバル化が発展してきた。ほとんど意識することなく、私たちは、すべてこれらのことは誰か他の人の責任であり、自分の責任ではないかのように、貧しい人々の抗議に共感を感じ、他の人の痛みのため泣き、そして彼らを助ける必要性を感じることもできずに終わっている。繁栄の文化は私たちを無感覚にする。私たちは、市場が購入するべき新しいものを提供するとき、興奮する。一方、機会がなかったために萎縮したすべての人の生活は、単なる光景に見える。彼らが私たちを動かすことはない。

新しいお金の偶像化にノー

55 このような状況の原因の一つは、お金との関係にある。それは私たちが自分自身と私たちの社会に対する支配権を冷静に受け入れるからである。現在の金融危機のために、私たちはそれが深刻な人間の危機に始まったという事実を見過ごしている! これは人間の優位性を否定するものある。私たちは新しい偶像を造り上げた。古代の黄金の子牛(出エジプト記、32:1-35を参照)の崇拝が、お金の偶像化、および真に人間的な目的を失った非人格的な経済の独裁という新しく冷酷な装いで戻ってきたのである。財政と経済に影響を与える世界的な危機は、それらの不均衡と、とりわけ人類にとっての現実的な関心の欠如を産み出す。人はその必要の一つに過ぎない消費にまで矮小されている。

56 少数者の所得が急激に成長しているが、その一方で、格差がこれらの幸せな少数者の享受している繁栄から大部分の人々をひどく分離している。この不均衡は、市場や金融投機の絶対的自律性を守るイデオロギーの結果である。その結果、少数者は、共通の利益のために監視するという国家の権利、どんな形態であれ統制するという権利を拒否している。新しい専制政治は、このようにそっと、しばしば誉め称えられながら生まれ、一方的かつ執拗に彼ら自身の法律や規則を押しつけている。負債および利子の蓄積はまた、国が自らの経済の可能性を実現し、市民が彼らの実質購買力を享受することを困難にしている。これらのすべての他に、世界的規模で生じてきた汚職の蔓延と利己的な脱税を付け加えることができる。力と所有に対する渇望には限界がない。このシステムは、利益の増加にとって邪魔となるすべてのものを破壊する傾向があるが、ここでは環境のように壊れやすいものは何であれ唯一の規則となった神格化された市場の利益の前に無防備となっている。


0 件のコメント:

コメントを投稿