2014年12月14日日曜日

明治期以降の新潟県の人口動態 1 

 人口は、経済社会を考える場合、最も重要となる数値です。当たり前のことですが、私たちの取り扱うのが猫や犬の経済社会ではなく、人間の経済社会だからです。
 したがって『人口論』を書いたマルサスは言うに及ばず、ケインズやハロッドのような偉大な経済学者は、人口統計にも最新の注意を払っていました。ケインズの「人口減少の若干の経済的帰結」(1937年のガルトン講義)については簡単に紹介したところですが、ケインズが人口問題に多大の関心を寄せていたことは、1990年代における人口に関する長大な遺稿が発見されたことや、「平和の経済的帰結」におけるロシア帝国における人口問題(過剰人口問題)への言及(決して素人的ではない言及)からもうかがうことができます。

 ところで、人口統計については、一国全体、例えば日本全体における変化が私たちの関心をひくことは言うまでもありませんが、各地域における変化もそれに劣らず重要といわなければなりません。特に日本の場合、明治以降、現在までいわゆる「地方」の人口が絶えず「中央」、つまり東京や関東地方に向かって移動してきました。いや、正確に言うと、江戸時代からそうだったようです。当時、江戸では、出生数が死亡数を超えることはほとんどありませんでした。つまり、自然増加率はゼロ以下。そこで、江戸という城下町が生き延びるためには、絶えず周辺地域からの人口の社会的移動(流入)が必要でした。例えると、これは江戸が人口を吸収する「アリ地獄」(またはブラックホール)のようなものだったことを意味します。
 実は、明治時代になっても、現在に至っても、そうした性格はあまり変わっていません。以下では、そのことを実際の統計データを用いて示すことにします。もちろん、実際の統計データからは、それと並んで、他の多くのことが分かってきます。

 ここで本論に入る前に、人口を推測するための資料としてどんなものがあるか、簡単に示しておきます。

 日本における人口統計、または人口を推測するための手がかりとなる統計が最初に現れるのは、かなり古く奈良時代末期から平安時代初期にかかてです。
 当時、大和朝廷を中心とする律令体制がしだいに整備されてゆくに伴って、国・郡・郷・里の制が調えられ、また戸籍が編まれました。特に現代人の私たちが人口を当時の人口を推測するために役立つのが各国・郡における郷数です。というのは、各郷は1000人を基準として編成されることとされていたからです。
 古い文献(10世紀初頭に成立した『和名抄』など)には、越後国7郡34郷が揚げられており、佐渡国3郡22郷が揚げられていました。したがって現在の新潟県にあたる地域には、10郡55郷があったことになり、その総人口は55,000人〜60,000人ほどが住んでいたことが推測されます。もちろん、これは概数ですが、少なくともオーダーは知ることができます。これは現在の約40分の1です。ちなみに当時の日本全体の国郡郷数は68国、592郡、4026郷でしたので、ここから総人口を推計すると、400万〜500万人となります。現在の約30分の1程度に等しくなります。
 それから1100年程の間に、全国人口は30倍に、新潟県人口は40倍に増加しましたが、この間、平安時代から近代までの越後の人口変化は、様々な時期に集められた様々な統計(人口調査、耕地面積、米の生産高=石高など)から知ることができます。
 新潟県については、例えば吉田東伍氏『越後国之歴史地理』(大正14年)中の「信越三県古今の歴史比較」などにそれらの資料と数字があげられています。これは新潟県立図書館のデジタルライブラリーにアップされているので、ここでは紹介を省略します。
 さて、江戸時代には、毎年宗門改帳が編成され、時折人口調査も行われていたので、それらを利用すれば、人口のおおよその動態を知ることは可能です。宗門改帳は、明治7年まで作成され続けましたが、その後、「壬申戸籍」の制度に席を譲りました。この壬申戸籍の制度も明治17年に終わりましたが、その後に現在まで接続する近代戸籍制度が始まり、また国勢調査も行われるようになりました。こうして明治期には、政府が「本籍人口」や「常住人口」などの人口統計を統計書で公表するようになりましたので、近代については、これらの数値を利用して、人口動態をかなり詳しく知ることができます。

 ただし、近代に近い時期に限っても、明治初期以前については出版された詳細な人口統計はありません。そこで、徳川幕府の公表した数字の他は、宗門改帳や壬申戸籍の数字を用いるしかありませんが、朱門改帳はともかくとして、壬申戸籍は地方自治体(市町村)の所有になり、かつプライベート情報が含まれているので利用不能です。

 しかし、私の調査では、1700年代から1840年代までの時期には、新潟県の人口はほとんど停滞しており、1840年代の飢饉と人口減少ののちふたたび増加しはじめ、その増加は1950年頃まで続きました。(ただし、1937年に始まる日中戦争、1941年に始まる太平洋戦争の中で徴兵等により減少し、戦後の復員等により急増しています。)

 なお、新潟県の場合、明治以降の人口統計は、『新潟県統計書』(明治〜1997年)、『新潟県統計年鑑』(1998年〜現在)の他、『新潟県概要』(1962〜64年)、『新潟県のすがた』(1965〜1988年)、『統計から見た新潟県のすがた』(1989〜1991年)、『統計データハンドブック』(1992年〜現在)に掲載されています。また新潟県庁のホームページに明治以降の長期時系列統計(zipファイル)が掲載されています。ただし、後者は、市町村別・月別統計・性別・年齢別統計をまとめているため、分析のためにはデータのソートが必要となり、よほど時間のある人以外は利用するのが難しように思います。

 次回から何回かにわたって、新潟県の人口動態の特徴を紹介することにします。


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