2015年9月11日金曜日

アメリカ経済は「自由市場」の経済か? 二枚舌に気をつけよう

 アメリカ経済はよく「自由市場」の経済だと言われる。
 本当にそうだろうか?
 結論を最初に述べると、本当のところは「自由市場」どころではない。

 まず「自由市場」の定義だが、普通、それは政府が市場に干渉しない、あるいは干渉が最低限に抑えられている国民経済(つまり夜警国家)と定義される。

 実際のところはどうだろうか?
 ジェームス・ガルブレイスが『プレデター国家』(2008年)で詳しく検討し、明らかにしているように、米国のGDPに示す公的支出の割合は50パーセントを超えている。その詳しい内訳は省略するが、公的支出の主な項目は、軍事、教育(高等、中等、初等)、社会保障(これは米国では概ね退職者の年金のことである)、医療・健康(ヘルスケア、メディケイド)であり、これだけで40パーセントを超えている。
 政府(連邦、州、地方)が経済に大幅に介入しているのである。こんな経済が上のように定義される「自由市場」経済のわけがない。
 そこで、「自由市場」神話がどうして生まれたか、その理由が知りたいところである。ちなみに、このような「自由市場」神話は、実証研究を行なっている経済学者、それも(例えば)レギュラシオン派のようなリベラル派の良心的な経済学者の間でも、語られることがある。すなわち、福祉国家、調整された市場経済、社会民主主義の要素を持つヨーロッパvs「自由市場」的アメリカ、と言った具合である。
 このような対比自体が、「自由市場」神話の一つの源泉になっている可能性も考えられるかもしれない。しかし、実際にはヨーロッパも米国も政府の市場介入が相当程度行なわれているのだが、その介入様式が異なると言ったほうがよいのではないかと思われる。
 私の意見では、「自由市場」神話の生まれる基本的理由としては2つの点を指摘できるように思われる。
 1)レーガン革命の余波
 1980年代のレーガン大統領(米国)とサッチャー首相(英国)による「自由市場」を看板に掲げたマネタリズム・供給側の経済学にもとづく「新自由主義」政策(ネオリベラル政策)の実施以来、米国では、ケインズとフランクリン・ローズベルト、ニューディールと「偉大な社会」が否定され、崩壊したという見方が広まったという事実がある。
 これらの政策は強烈であり、今日でもその影響のあとは残されている。
 実際、ヴォルカーの金融超引締め(超高金利)=反インフレ政策が実施され、高失業や実質最低賃金の低下の中で、労働者の賃金が抑制されたことは事実であり、また供給側の経済学(新古典派の一派)に理論的に支えられて1981年に実施されたレーガン「再建税制」が法人税率の(実質的)引き下げ、所得税の限界税率(高所得者の税率)が引き下げられたことも事実である。さらに金融の自由化も1980年代から徹底的に実施された。
 しかしながら、マネタリズムの実験は失敗し、すぐに停止され、また「再建税制」も保守派の唱える「均衡財政」を実現できないどころか、大幅な財政赤字をもたらした。
 その上、レーガン革命は、決してニューディールや「偉大な社会」の実現したことを根本的に葬ることは決してなかった。もしそれを行なったら、共和党は、大量の票を失ってしまい、政権に戻ることはなかっただろう。それに加えて、レーガン(反)革命は、ケインズ主義的福祉国家を全面的に葬りさることができないだけでなく、減税による税収減+軍事の膨張によって反動的な「軍事ケインズ主義」を生み出した。
 すでに1980年代に、米国の保守派(経済学者+政治家)は、「自由市場」の失敗をよく理解していた。国家の介入なくして資本主義経済は運営できない。問題は、「国家」対「市場」ではない。これが事態をよく理解した人々の認識だった。ただ彼らは、そのことに一言も触れずに、そっと転身しただけである。もちろん、環境が変化したことに気づかず、今でも「自由市場」神話を信奉しているKYな経済学者は存在する。しかし、それは大学の中に閉じ込められており、現実の政策に大きくかかわることはない。(ただし、事情によっては部分的に利用されることは今でもある。)
 2)二枚舌(ダブル・スタンダード)
 今ひとつは米国の二枚舌(ダブル・スタンダード)である。
 米国は、その誕生のときから「自由」のスローガンなしには存在できない国である。彼らは自分たちの経済が「自由市場」ではないと知っていても、「自由市場」によって運営されている「ふり」をする。(エマニュエル・トッド氏なら、これをアングロ・サクソン民族固有の家族形態(不平等な相続制度を特徴とする自由な小家族)と関係づけることだろう。私もたぶんそうだと思う。)実際、アメリカの制度には、準公的(parapublic)なものがきわめて多い。(その一例は住宅におけるファニーメイとフレディマックである。)
 この二枚舌が存分に発揮されるのが、とりわけ外に対するときである。彼らは、それが有害と知ってか知らずか、開発途上国に対して成長するには「自由市場」、マネタリズム、供給側の経済学、マクロ的経済安定(インフレ抑制+為替相場の安定)、均衡財政などが有効だと主張する。上記のように国内ではとうの昔に放棄されていても、である。
 もちろん、時と場合にはよっては、国内でも二枚舌は使われる。とりわけ労働者の所得(つまり賃金)については、今でも、高賃金が高失業をもたらす要因であるとして、「自由市場」の諸理論(自然的失業率、NAIRU、つまり<失業を加速させない失業率>以上に現実の失業率を高くしなければならない(!)という「理論」など)が動員される。ただし、この最後の理論などは、有権者に知られるとまずいので、極力隠される。
 
 要するに「自由市場」の偽装の上に成立している国家介入型の経済、これが現代の米国経済の実際の姿である。

 最後に二つ。
 誤解を避けるために述べると、私はヨーロッパと米国が同じような経済構造を持つと主張しているわけではない。ここでのポイントは、「自由市場」ではなく、政府介入の上に成立しているという意味での同質性である。だが、そこから先は大きく異なる。ヨーロッパ経済が相対的にはるかに平等主義的・福祉国家的であるのに対して、米国経済は「コーポレート・プレデター」(一握りのプレデター=補食者による企業支配、政府支配)の傾向が強いという相違は否定できない。もちろん、プレデター国家を「自由市場」と同一のものと見ることはできない。
 また私たちは「自由市場」神話を信奉する必要はまったくない。正当な政府・立法府の介入を得て、最低賃金を引き上げたり、労働条件を向上させ、国民の生活をよくすることが結局は経済社会をよくする道であることを知るべきである。
 



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