2016年10月13日木曜日

連合王国(イギリス)のEU離脱を考える(3) 議論

 EUとユーロ圏の将来を考える、といいながら、だいぶん日にちが経過してしまった。

 この問題は、根本的な将来ビジョンをどのように考えるかにより、見解がまったく異なってくるため、やっかいな問題を含んでいるように思われる。ここで「根本的なビジョン」というのは、EUまたはユーロという単一通貨制度はずっと維持されるべきなのか、それとも有害物として(かりに例えば数十年後の将来に復活されるとしても)現在廃止されるべきなのかというものである。

 『時間稼ぎの資本主義-いつまで危機を先送りできるか』の著者、ヴォルフガング・シュトレークは、ユーロが維持不能であり、現在ユーロ圏は「時間稼ぎ」(saving time)をしているだけであると主張し、他方、EUおよびユーロ圏のこれまでの、また現在のありかたに厳しい批判の目を向けてきたユルゲン・ハーバーマス*は、シュトレークの指摘している問題点を「経済政策上」のものとしてした上で、根本的には民主化によりEUを再建しなければならないという見方である。
  *「デモクラシーか資本主義か?」『世界』岩波書店、2016年9月号。
 シュトレークの議論は、金融危機というきわめて深刻な事態を惹起するような通貨統合と政策運営、しかも政治的、財政的統合なき通貨統合であったため、EUがこの深刻な事態に対処できないでいることを適確に示している。これはイギリスのポスト・ケインズ派の示すところでもある(すでにニコラス・カルドア氏は、通貨統合前にこの<政治統合なき通貨統合の>問題点を適確に指摘していた。)
 一方、ハーバーマスは、世界社会が資本主義によって統合されている(グローバル化されている)現在、人々が国民国家ごとに分断化されているのは、悲惨であると主張する。この問題提起は、私の恩師の一人、宮崎義一氏(故人)がグローバル化された世界にはグローバルなケインズ主義が必要であるとされていた主張に対応するものであろう。
 私の意見では、「存在しない一つのヨーロッパ」(ein Europa, das es nicht gibt)という著書を著したDominik Geppert が言うように、実際には現在のEU制度の下で、一つのヨーロッパが存在するどころか、各国にまったく分断されている状態である。それは何よりも、通貨統合はされたが、財政統合がほとんど行われていないことに示されている。そのため、特に周辺諸国で金融危機と財政危機が深刻な事態にまで進展しても、それを抑えるためにEUの共通財政からの支出が行われておらず、各国政府にまかされている。エマニュエル・トッド氏が皮肉ったように、実際に存在するのは「一つのオイローパ」(ein Europa)、すなわちドイツのEU支配という現実である。
 現在のEUにおける社会経済問題の解決が前提としているEUの運営・制度の財政的な統合=民主化がそもそも実現可能なのかどうか、つっこんだ議論が必要となる所以である。

 ここでは、考える糸口として、最近、ピケッティが書き表した論評の一部を日本語に訳して以下にあげておく。
 ピケッティは、EUがこれまで Brexit といった事態を招くような様々な運営を行ってきたことを批判しながらも、そうした運営をもたらした制度的欠陥を指摘した上で、EUを再建することが可能だと考え、そのための諸方策を提言している。私には、単にEUの民主化によっては克服できない社会経済上の問題があるのではないか、という疑問をこれによって完全に払拭できるわけではないが、この論説が現在EUのかかえている問題点の一端を明らかにしていることは間違いないであろう。
 
 トマ・ピケッティ  Brexit 後にヨーロッパを再建する
 http://piketty.blog.lemonde.fr/2016/06/30/reconstructing-europe-after-brexit/

素直になろう。2016624日の夜明けまで、誰もイギリス人が本当に Brexit 【英国のEU離脱】に賛成票を投じようとしていたとは信じていなかった。大惨事が襲ったいまや、落胆を感じ、ヨーロッパの民主主義的で進歩的な再建のどんな夢をも捨て去ることが誘惑的となっている。しかしながら、私たちは耐え、希望をもって生きなくてはならない。というのは、私たちには他のどのような選択肢もないからである。ヨーロッパにおける国民的な利己主義と外国人嫌いの台頭はストレートに大惨事をまねくことになる。出来事の結果を見て、Brexit後にヨーロッパを再建するために何を変え、明確化するべきかを見ておこう。
何度も繰り返すが、多くの場合、 Brexit の票は本当の反欧州連合票というよりはむしろ移民とグローバル化への反対票であると言われてきた。たとえ英国人の偏狭がかなりの程度のものであるとしても、外国人嫌いに逆戻りするこの態度には、非常にニヒリスティックで非合理ななにものが、つまり国民戦線を持つフランスおよびいまやトランプ票を持つアメリカ合衆国でよく知られている反応がある。移民と外国および外国文化に汚名を着せることは決して問題の解決策ではない――まったく逆である。また連合王国が自己の道を見いだせるのは、明らかに集団的な協議のために唯一の現存するヨーロッパの骨組みの外に出ることによって、ではない。
これらすべてのことが真実である。しかし二つの点を明確に示さなければならない。第一に、ヨーロッパの諸制度は共通の財政的および社会的基礎を持たない国と地域の間のますます純粋かつ完全になりゆく競争原理に全面的に依存しており、この投票はこれらの制度に対する反動である。客観的には、これらの制度は、過去数十年間にわたって作用してきたグローバル化に向かう高度に不平等な趨勢を強めてきただけである。民主主義的かつ進歩的な答えがない状態に直面して、労働階級と中産階級が最終的に外国人嫌いの勢力に訴えるのは驚くべきことではない。これはまさに本当の自暴自棄の感覚にとっての病理学的な反応である。ヨーロッパの建設は、1950年代~1970年代の再建および成長と調和しつつ共通市場のためのプロジェクトに起源を持ちながらも、1980年代~1990年代以降に急速に成長してきたグローバル化された金融資本主義を規制するための有効な力に転換する方法を決して知らなかった。
次に私は、UKIP 【英国独立党】またはFN【フランスの国民戦線】が不幸にも近年の国民的な利己主義と集団的不合理性の台頭に屈した唯一の政治勢力ではないという真相を述べるのが義務と感じている。とりわけ2008年以降のユーロ圏諸国による金融危機の惨めな管理を説明するのは、近視眼的な利己主義であり、また<すべての人は自分自身のために>という思想の台頭である。
この角度から見ると、ライン河の両側で権力に就いてきた中道右派と中道左派の政府(CDUUMP PS)はいつか認めなければならない重い歴史的責任を負っている。ほぼ10年にわたりドイツで維持されてきた立場は、ほとんどまったく変化しなかった。すなわち、ドイツ以外のユーロ圏諸国が私たちドイツ人と同じことを行い、同じ改革を実行し、同じ信頼性と同じ美徳をもって振る舞う等々のことをしたならば、すべてが、すべての可能な世界の中で最善の世界の中で、最善の方向に向かっただろう、と。
このアプローチは道徳化し、高尚かつ国民主義的であるが、その問題点はまったく非合理的であることである。明白なことながら、それはドイツの産業的、社会的モデルから学ぶべきいくつかの良い教訓があるかもしれないといったものではない。問題は、もしユーロ圏のすべての国が広範囲の賃金デフレーションという同じ政策を採用し、今日、産業革命以降の歴史において前代未聞のGDPの8%という同じ巨額の貿易黒字を持つことになるならば、定義上、そのような黒字を吸収するものが世界中に誰もまったくいない点にある。
ドイツで政権に就いている人たちは、いつも世論に対して、世界の他の国と歴史にとって明白となっている真相を、すなわち彼らのハイレベルな経済活動と雇用がかなりの程度に彼らの隣人の損失によって得られてきたことを説明することを拒否する。いくつかの通貨があれば、ヨーロッパの南部における通貨の大幅なデノミネーション【通貨価値の切り下げ】で十分だっただろう。しかし、単一通貨を維持するという選択がなされた時から、ドイツの給与と公共投資を大規模に再度引き上げ、また財政・予算同盟を設立することが必要だっただろう――今もまだ必要である――【ドイツは逆に、賃金を圧縮し、単位労働費用を引き下げることをしてきた】。
フランスは、何もしない悪い言い訳としてドイツを利用することを好んでいるが、この国の場合には、南欧を切り捨てることに決めた理由がフランスは隣人のドイツと同じ極めて低い金利から利益を得てきたからというのが真相である。それはユーロ圏の政策立案者が2011年~2013年にユーロ圏を理不尽な景気後退に陥れた超緊縮政策を強いるという結果をもたらしたが、この政策は世界の趨勢に反するものであり、ユーロ圏はまだそれから完全に回復していない。
かくして、ユーロ圏はヨーロッパに対する重荷になった。Brexit の提唱者は、まさに終わったキャンペーンの中でこれをためらいなく利用した。私たちを落胆させる諸国と一緒にとどまることのポイントは何であり、またそれらの諸国の通貨同盟を正しく管理する力があるのは誰だと思えるだろうか? ユーロは、共通市場を、市場投機から私たちを守ることのできる政治的同盟に転換するための保証であり、21世紀における資本主義の規則を可能にする公共的機関に向かう第一段階のはずであった。実際には、ユーロはその過程全体を脱線させる恐れのある、ほとんど邪悪な何物かになってしまった。
私たちは、いま何をするべきか? 第一に、欧州連合は、財政的、社会的および規制的な対応物(政策や制度)なしに、財、サービスおよび資本の自由な運動の広大な地域に変えられてはならないことを明らかにしなければならない。経済成長が持続可能となるためには、公共事業、インフラストラクチャー、教育・研究・健康のためのシステム、大学の交換、地域の平等化、機会の均等が必要であり、このすべてが費用を必要とする。
連合王国はいまやノルウェー、アイスランドおよびスイスと類似の地位を得ようと試みるだろう。これが無償ではできないことを、イギリス人に思い出させる潮時である。――またもしこのことがドイツとフランスの政府によって完全に透明なやりかたでもっと早く行われていたならば、事態は変っていただろう。ノルウェーとアイスランドは、共通市場への完全なアクセスを保証するヨーロッパ経済地域(EEA)の一部である。しかし、その代わり、これらの二国は欧州連合のほとんどすべての立法を採用し、またその予算に対して(GDPで表すと、現在の英国の寄与分に近い)寄与分を支払わなければならず、それも集団的意思決定に参加せずに、である。さらに、私たちは、現在のところ優先的な地位(その予算上の寄与は半分の量である)から利益を得ているスイスに同じ規則を適用するためにこの機会を利用するべきである。
とりわけ、共通市場を利用することを望んでいるEU非加盟国の恒常的な財政的寄与の問題を越えて、いまや規制撤廃競争に携わる国、および特に金融透明度や租税最適化と戦うという問題において厳格な規則を適用しない国に適用できる制裁を議論する時である。私たちは、スイス銀行業の秘密性に(臆病ながら)異議がとなえられ始めるように、アメリカの制裁を待たなければならないというのは正常事ではない。ガブリエル・ザックマンの計算(多くの言語に訳されている『隠された国富』、ソイル、2014年)は、銀行業の秘密性からスイスにもたらされている利益は、もしその主要な三隣国(ドイツ、フランスおよびイタリア)に適用されるならば、それらの国が30%の関税で支払うことになる金額に等しいことを示している。
同じ問題は、ロンドン金融市場と英国領の租税回避地についても提起されるだろう。他国に課される損失と、その金額に応じて課される制裁金の完全な評価がなされなければならないだろう。私たちがこの型の制裁金を課す準備をしない限り、その国が欧州連合の外部で繁栄する選択をするのは驚くべきことではない。もし共通市場を利用しながら、一方で隣国の財政的基盤を静かに吸い出すことが可能ならば、なぜみずからその【制裁金を課す】機会を奪うのか? ヨーロッパを陥れ、結局、【金融や企業の】自由な運動と自由市場の法典化に基づく法的および政治的なシステムは、集団的規制という真剣な対応物【政策、制度】などなしでは、私たちをまっすぐに一連の Brexit に導くだろう。
さらにもし私たちがユーロ圏を救うことを望むならば、根本的な方向転換が求められる。20151月のギリシャにおける Syriza 【ギリシャの政党】の勝利――それ自体、ヨーロッパ人がギリシャの前内閣に負債を減免すると約束したにもかかわらず、頑固に拒絶した結果である――の後に、ユーロ圏の指導者たちは、他国の有権者が同じ行動方針に惑わされることをやめさせるために、その国を辱めようとする理不尽な選択を行った。
この選択は、Podemos【ギリシャの政党】が、201512月および20166月にスペインで実施された2ラウンドの選挙でPSOE【スペイン社会労働党】がなしえた以上のことをできなかったので、部分的には割に合った。唯一の障害は、スペインが今日統治できないことであり、またフランスとドイツの指導者たちが、いまや連合王国、ポーランドおよびハンガリーのいたるところで右翼ポピュリズムとナショナリズムの台頭に直面していることである。この脅迫は、ヨーロッパにとって、本質的には単に分別のある要請を定式化しているにすぎない急進的左翼の提起している挑戦(ヨーロッパの公的債務の軽減は不可避であり、出来るだけ早く組織化されなくてはならないという挑戦)よりはるかに危険である。ヨーロッパの公的債務の減免は不可避であり、出来るだけ早く組織化されなくてはならない。急進的であるか否かにかかわらず、SyrizaPodemosPSOE および左翼政党全体に頼ろうとするほうが望ましかっただろう。これらの党は、右派のポピュリストと比べると根本的に親ヨーロッパ的という長所を持っている。
今日でもまだ、ヨーロッパの指導者たちが、ギリシャに今後数十年間にGDP3.5%の基礎的財政収支黒字を産み出すことを求め続けていることを指摘するのは、遺憾なことである。経済活動水準が2008年より四分の一より低く、また失業率が急激に上昇している国だという事実を考えると、これはまったく無意味である。GDP0.5%ないし1%の範囲の小さな黒字を求め、それ以上を求めないことが正常である。債務を減免するという決定はふたたび年末まで延期され、しかもこれが最後ではないということもありそうである。
より一般的に言うと、ヨーロッパ地域が強い成長を取り戻すまで、ヨーロッパの債務のモラトリアム(停止)を確定すること、またインフラストラクチャーへの投資、訓練および研究のプログラムを開始することが緊急である。今日、この瞬間に優勢となっているマイナス利子率が示すように、私的セクターは投資することを恐れており、またユーロ圏は、公的な刺激なしには、緩慢な成長およびほとんどゼロか、あるいはマイナスのインフレーションの時期に入り込むかもしれないという現実的なリスクがある。歴史が示してきたように、そのような環境で高い公的債務を減らすことは不可能であり、また負債を新世代が償還することが不可能になるときには、明らかに債務を減免する勇気を持つほうがはるかによい(ドイツは、1950年代にその債務が帳消しにされたとき、それから大いに利益をえている)。貨幣の創出と新しい資産価格バブルの進展【金融緩和政策】が政府による行動に代わって問題を解決することはないであろう。まったく逆である。
最後に、もし私たちが本当にこれらすべての問題について真に進歩を成し遂げることを望むなら、制度上の討論を避けることはできない。現在の制度をベースにして急いで妥協を継ぎはぎするのはいつも可能である。しかし、長い目で見れば、もし私たちが穏やかに、そして民主主義的にユーロ圏の内部で、復興計画を採用し、負債を減免し、また企業利潤に対して共通税を採用することを望むならば、その制度は民主主義的な土台の上に再確立されなければならない。ヨーロッパの諸制度は2005年にヨーロッパ憲法条約(最終的にリスボン条約で2008年に採択された)をもって最終的な仕上げ状態に達しており、またもし国民の政治的指導者と世論が最終的にこれらの素晴らしい制度の適切な理解を持ち、ばかなユーロ恐怖症をやめたならば、すべてはうまくゆく、という理論がある。
実際は、現在のヨーロッパの諸制度は深刻な機能不全に陥っている。それらは外見上の二院制に基づいている。すなわち、一方では国家元首をいだく欧州理事会(またその閣僚レベルの道具、つまり財務大臣会議、農業大臣会議など)、また他方では、欧州議会(市民によって直接選出される)である。原則として、ヨーロッパの立法文書は、これらの二つの立法府によって認可されなくてはならない。実際には、権力の中心は欧州理事会と閣僚会議が保有しており、これらは――特に租税の配分であり、それは真の進歩を妨げる――ほとんどの場合、全会一致の決定をしなくてはならず、また過半数の規則が適用される稀な場合には、まだ秘密裏に議論し続けている。
真相は、欧州理事会とは、お互いに対立する国民的利益を設定するための機構、ヨーロッパ・レベルの民主的議論と多数派の決定を生み出すいかなる可能性をも防ぐための機構だということにある。一人(国家元首または財務大臣)が単独で8,200万人のドイツ人、または6,500万人のフランス人、または1,100万人のギリシャ人を代表することを期待されるやいなや、これらの人々のうちの誰かが却下されることで頂点に達するような、冷静な民主的議論を行うことは不可能である。
欧州において行動上の惰性と無能力とを生み出しているのは、民主政治を避けて通ること(課税に関する満場一致、財政基準についての自動的な規則)を目指す多数の規則と並んで、この制度上のシステムである。みなが自らの国民的利益と信じることのために闘っており、実際には、すべてが秘密裏に行われるので、誰も何が起こっているのか知らない。これらの会議は、何を決定したか自分自身でも知らないことを、翌日私たちが理解する前に、規則的に真夜中に、ヨーロッパを救ったと言って私たちに知らせる。この制度的構造がほとんど人々の心にヨーロッパを慕わせているとは考えづらい。
この行き詰まりに直面して、いくつかの発展が可能である。 ユーロ愛好家の中には、欧州理事会の役割を大幅に減らし、欧州議会にその主要な権力を託すことを提案する人がいる(例えば「リベラシオン」における二三日前のローレン・ジョフリンを見よ)。この解決策は単純という長所を持つ。しかし、それには国民的な政治制度についてまったく何も言わないという不利益がある。それは諸国民の敵意と Brexits の連鎖反応を生み出す可能性が高い。
私見では、最も希望を抱かせる前方への道は、一方では、欧州議会(市民によって直接に選ばれる)に基づき、他方では、各国の人口と各議会に存在している政治団体に比例して議会上院の代表者を構成する議会上院に基づく、ヨーロッパ二院制の原形をイメージすることである。
この議会上院は、例えば 【ドイツの】連邦上院から40名ほど、【フランスの】国民議会から30名ほど、などを含み、特に国民的納税者に直接関係する予算上および金融上の決定を取り扱うために、毎月一週間会議を開くことになるだろう。これらは、ユーロ圏中の財政赤字のレベルの選択、ヨーロッパ安定性メカニズムの監督、ユーロ圏の予算、負債の軽減などを含む。
これは、各国民議会が事実上の拒否権を持つ現在の状況より、いかなる場合でも、満足できる有資格者の多数のための様々な規則を内包することになるだろう。この拒否権が民主的な正当性という恐ろしい問題(ドイツ連邦議会対ギリシャ議会など)を引き起こし、多くの場合に行き詰まりをもたらしているのである。しかし、国民的な選出議員に、相互に横に座り、公開の民主的な議論の後に過半数による決定を行う可能性を与えることによって、進歩が正しい方向に向かうことを希望することが少なくとも可能となる。
この二院制の原形は、古典的な二院制の構築物(フランスの下院と上院、ドイツの上院と下院、および合衆国の上院と下院)とは異なって、私見では、国民的な枠組みの議会制民主主義に基づいて、長年にわたって極めて複雑な形態の社会的国家を建設することに成功した古い国民国家に基づくヨーロッパ建設というユニークな特徴に対応する。
すべての欠点にもかかわらず、根本的な民主的な構造物のままにとどまっている国民議会を避けて通ることによって、欧州議会の主権を築くことは私には現実的とも、望ましいとも思われない。何十年間も、これらは世界の歴史において前例のない、社会福祉の台頭と生活水準の向上という結果をもたらしつつ、GDPの二十数パーセントに相当する社会的負担と予算を可能としてきたのである。国民的な立法者をヨーロッパの共同立法者に漸次的に転換し、それらがヨーロッパ全体の利益を考慮するようにさせし、ただヨーロッパについて不平を並べるのを防ぐことがより賢明に思われるだろう。
議論は公開とし、綿密な議論をしなければならない。私たちはまた、議論を突然終わらせることがありえた誤解を避けなくてはならない。国民議会の役割の問題が提起されるとき、ユーロ愛好家からの、特にこれらの提案を耐え難い後退と見る欧州会議に近い人たちからの、いらだちの反応を聞くことがあまりにもしばしばである。
実際には、1979年の普通選挙権による欧州会議の最初の選挙の前には、欧州議会は純粋に顧問的な役割を持つ国民議会の代表者から構成される議会的な会議に過ぎなかった。しかし、ここで擁護している提案はそれとは完全に異なっている。その意図は、国民議会からやって来る議員からなるこの議会上院に、欧州理事会(決して本当の立法機関とはならないであろう)に代わって本物の立法権を与えることである。究極的には、これは欧州議会の弁護する議会的アプローチを強くすることを可能とし、疑いなく現在の行き詰まりを打開する唯一の方法をなすだろう。しかし、この古い恐れは、長く続きしたため、一夜で姿を消さないだろうという懸念がある。
二三日前に、ジャン・ピエール・シェヴェヌマン――諸国民のヨーロッパの長期にわたる擁護者――は、ルモンド紙で、欧州理事会(しかしながら、これは決して民主主義的な議論の場ではない)の力を強くするべきであり、一方、同時に欧州議会の議員たちは国民議会(欧州議会議員を必ず悩ませるであろう)から引きはなされるべきと述べた。しかしながら、彼はそれがとるべき形も、持つべき権力も述べなかった。例えばヤニック・ヤドットまたはアンリ・ヴェーバーのような欧州議会の議員の中には、一部は欧州議会議員(MEPs)を構成し、また一部は国民的な選出議員を構成するユーロ圏議会を伴った混合的な解決策を提案した者もいる。これは私にとって最もわかりやすい解決策であるように思われないが、その議論は正当である。
どんな場合にしても、ヨーロッパの諸制度についての、こうした議論が基本的であり、それは法の、また憲法の専門家に限られるべきではない。それは課税や債務の議論と同じく、すべての市民に関係している。あまりに長い間、これらの問題は私たちが知っている結果とともに、他人のものとされてきた。いまやヨーロッパ市民が自分たちの未来を取り戻する時である。


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