2017年4月5日水曜日

グローバル化とナショナリズム・愛国主義の政治社会学 「きれいはきたない。きたないはきれい。」(シェークスピア『マクベス』)

 しばしば一見して相反する、または矛盾する事柄が同じ人(政党、団体、組織など)から発せられることがある。が、人はそれを矛盾と感ずることなく、見過ごすことが多い。
 もし同じ場所・同じ時間に同じ人がその二つのことを話したら、ほとんどの人は違和感をおぼえるだろう。しかし、場所的・時間的に分離してしまうと、相反事象や矛盾が相反ないし矛盾とは意識されないことがある。おそらく何らかの事情で人間の頭脳がそのように出来ているのであろう、というしかない。

 一例をあげよう。現在、企業経営者たちは、どこの国でも、「グローバル化のメガコンペティションの中で経営が苦しい。だから賃金の引き上げなど労働条件の改善が難しい」と泣き事をいうのが常套である。これは経営者の職務のようなものである。しかし、場合によっては、経営者は、「高い人件費・費用負担(税金や社会保障費負担)が続くと、もっと低い地域・国に流出するから、雇用・職が失われるけど、それでいいかな?」と脅してくる場合もある。このように政府に圧力をかけ、従業員を脅してみるのも経営者の職務の一つである。とはいえ、泣き事と脅しを同じ場所と時間に同時に行う者はいない。理由は明らかである。
 泣き事と脅しはまったく異なる行為、人々の態度としては正反対の行為である。しかし、労働条件の改善をしないというシグナルを発するものとしては両者はまったく同じである。様々なメディアを通じて人々に伝達される、このシグナルはしだいに人々の脳内に蓄えられて行き、いわば「制度化」される。それは一種のマインド・コントロールのようなものであり、もうすこし柔らかい言葉を用いれば、社会化(socialization)である。

 おそらくこれよりも相反度、矛盾度の高いのが、グローバル化の言説とナショナリズム・愛国主義の言説であろう。
 いうまでもなく、グローバル化=全地球化は、ナショナルな(国民的な)価値を否定し(あるいは否定しないまでも、低く評価し)、諸個人が全世界の中で世界標準にしたがって行動することを求める。他方、本来ナショナリズム(国民主義)や愛国主義は、諸個人が国民国家に帰属することの価値を称揚する。このように考えるならば、両者は鋭く矛盾するはずである。
 ところが、現在のわが国でもそうであり、外国でも例に事欠かないが、同じ社会的、経済的、政治的グループ(またはそれに所属すると意識している人々)が両者を称揚することがしばしばみられる。もっとも、この場合も、同じ人が同じ場所、同じ時間に両者を主張することはない。そのような場合には、それを聞いた人たちが矛盾を感じ、内省をはじめてしまう危険性があるからである。あくまで、両者は別々に行わなければならない。

 だが、このケースは、泣き事と脅しのケースと異なって、相反度・矛盾度がきわめて高いように見えるかもしれない。なにしろ、それらの本来的な主張に照らせば、国民または国民国家という価値を高く見るか、低く見るかという相違があるからである。

 だが、よく検討すると、これらの典型的に保守的なグループの人々の掲げるナショナリズム・愛国主義には、国民=国民共同体=国民国家という価値の称揚が含まれていないことがほとんどのケースである。むしろ、ほとんどのケースでは、ナショナリズムとされているものは、人々を一つの政治的目標に導くための、そこに人々を動員するための方策にすぎない。
 研究史上、そのことをアメリカ合衆国で(たぶん)最初に本格的に指摘したのは、アメリカの優れた経済学者であったソースティン・ヴェブレンである。彼は、著書『不在所有権と営利企業 アメリカのケース』*で、アメリカの不在所有権者(大企業者)たちが自分たちの営利(不在所有権)の拡大のために愛国主義・ナショナリズムの名の下に人々を導いていったかを実証している。
 *Absentee ownership and business enterprise in recent times: The case of America, 1923.

 日本では、丸山真男氏*が戦後、日本のナショナリズムについていくつかの論文を書き、その中で、他のアジア諸国ではナショナリズムが民族統合と(植民地主義からの)民族解放のためのエネルギーとなりえたのに対して、明治維新後の日本の場合には、ナショナリズムは人々(国民)を政治的に支配し、特定の政治的・軍事的目的に従属させるためのイデオロギーにしかならなかったことを示している。
 *『丸山真男集』岩波書店、第5巻、第9巻。

 結論すれば、グローバル化とナショナリズム・愛国主義の主張の根は、一つである。それはヴェブレンがすでに20世紀初頭に指摘していたように、諸個人(企業の従業員をはじめとする大衆)を大企業に対する滅私奉公に動員させるための「徳目」を説くものである。
 
 現今の日本では、現政権がさかんに「教育勅語」を持ち上げ、その徳目を称揚しようとしている。しかし、この勅語で説かれているのは、親(父母)孝行、兄弟愛、夫婦相和など、あえて勅語に頼らずとも、常識的に考えられているものである。だが、勅語の最後には、「一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ」と書かれている。
 いわゆる日本の愛国主義者が教育勅語にこだわるのはこれに他ならない。つまり「臣民」=天皇の臣下として滅私奉公し、例えば戦争になったら天皇のために命をささげ、天皇に忠義をつくす、これである。ここには、国民という価値(国民国家への帰属)の称揚ではなく、諸個人を滅私奉公に誘導するための「徳目」が記されていることは明白である。

 蛇足ながら付け加えておく。いわゆる愛国主義者は、国民やその個々の帰属者(個人)の価値を否定することによってその反対物に転化する。諸個人の生命や健康、人権を奪い、人々の利益(広い意味での国益)を損なうのである。その具体例は、枚挙にいとまないので、時間をみつけて書くこととしよう。
 

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